推しが燃えたオタクが『推し、燃ゆ』を読んだ

※長いです。あと、ネタバレがあります。

 

推し、燃ゆ

推し、燃ゆ

 

 

最近、よくスマホで本を読む。昔から読みたいと思う本はたくさんあれどなかなか書店まで買いに行くまで至らなかったり、後から見つけて中古で買っても結局積ん読になってしまった本がいくつかあった。

お気に入りのカップに紅茶とか淹れて、ソファに座ってゆっくり紙媒体で読むのが一番理想だけど、なぜか近年はその読書の時間を作るのが億劫で難しい。スマホを延々といじる時間はあるのに。

半年くらい前に、仕事の関係で勉強したいことがあって、でもこちらで日本の専門書を探すのが難しかったのと、見つかっても値段が高いこと、わざわざEMSで取り寄せるほどでもないし極力物を増やしたくないのもあり、初めて本をダウンロードした。今まで電子書籍には消極的だったけど、一気に読めた。スマホだと、読みたいと思った時にサクッとダウンロード出来て、サクッと読めるのが良い。しかも暗いところで画面を開くと黒い画面に白文字で表示してくれたり、読み途中でしおりを挟んだり出来る。レシピ本はスマホスタンドに立てて、見ながら料理できる。超便利じゃん!そこから味を占めて、この半年の間に何冊かダウンロードした。

 

『推し、燃ゆ』はツイッターで見かけたレビューと、そのタイトルに惹かれてダウンロードした。レビューを見て、この手の小説は読むなら今が一番良いと思って、落としたその日のうちに読んだ。小説の中にたくさん散りばめられた、今を生きるオタクの"あるある"をリアルタイムで読みたかった。オタクのネット文化はあっという間に生まれ変わっていく。今すぐ読まないと、ツイッターのタイムラインのように、この小説の面白さが上から下に流れていってしまう気がした。何年後かに「こんなのあったよね」と懐かしみながら読むことも出来ると思うけど。

ちなみに『推し、燃ゆ』の初版発行日は昨年9月。もしこれが10年前だったら掲示板や個人サイトが登場していただろうし、半年後なら話題の招待制アプリが登場したかもしれない。

 

『推し、燃ゆ』の主人公は、おもにツイッターに生息し、ブログを書き、インスタを見る、まさに令和に生きる現代のオタクだ。ツイッター構文(オタク構文?)を使って呟いたり、推しの誕生日にケーキを用意して推し不在の誕生日パーティーをしたり、インスタライブを見ながら食事を取ったり、推しがいる人なら共感できるリアリティが最初から最後まで詰め込まれている。

 

〈推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。〉

小説は、この衝撃的な一文から始まる。

かくいう私の推しも何度か燃えた。人を殴ることは決して無かったが。

長いことひとりの人間を応援していれば、【〇〇を応援してくださっている皆様に大切なお知らせ】というメールの件名や、「〇〇が……」「〇〇ちゃん……」という推しと自分の名前だけが並ぶただならぬ空気感のLINEの通知なんかに、背筋が凍り、指先まで冷たくなる感覚を味わったことがある人は少なくないだろう。

私は多分人並み以上にその経験がある。

推しに限って言えば、プライベートな画像の流出から、解雇、逮捕まで。私はそんな、経験する必要のない経験までして、そのたびに離れていくオタクがいたにも関わらず、生き残ってしまったサバイバーオタクである。

 

だからこそ、『推し、燃ゆ』を読み始めてすぐ、主人公あかりのオタクとしての顛末に興味が湧いた。(名前も同じだしね。)

多分、推しがファンを殴ったら、私はファンを辞めるだろうな。だけど、昔から何かあるたびに「警察のお世話にさえならなければ良い」って言ってたのに、推しが逮捕されても結局ファンを辞めなかったよね。って、ぼんやりと思いながら。

主人公はどうするのだろうか。降りるのか。はたまた擁護するのか。

感覚的には、推しが燃えたオタクのSNSを覗き見る感じだった。

 

主人公の推しである上野真幸は、ファンを殴って炎上したあと、公の場に姿を現した。主人公は、推しがリポーターに囲まれるその映像を何度も見ては、ルーズリーフにやりとりを書き起こした。

そして、映像の中で、「反省しているんですか」と怒鳴るようなリポーターの声に、「まあ」と答えた推しを見て、〈推しは「まあ」「一応」「とりあえず」という言葉は好きじゃないとファンクラブの会報で答えていたから、あの返答は意図的なものだろう〉と解釈した。

 

主人公はラジオ、テレビ、あらゆる推しの発言を聞きとり書きつけたものをファイルに閉じて保存している。溜まった言葉や行動は、すべて推しという人を解釈するためにある。なぜなら「誰にもわからない」とファンさえも突っぱねた、上野真幸の見ている世界を見たいから。主人公のスタンスは、推しを解釈し続けることにある。

 

上野真幸はファンを殴るような人ではない、と主人公は解釈していた。だから、今回の事件のように解釈違いを起こせば、主人公は考える。実はそんな一面もあったのか。推しの中で何か変化があったのか。何かがわかるとブログに綴り、解釈がまた強固になってゆく。

事件の詳細が全く分からない状況の中、まだ何とも言えない。わからない。と言いながら、主人公は感じる。〈ただ、これからも推し続けることだけが決まっていた。〉いや、なんでだよ!なんでだよ。なんでだろうね。私も、推しが解雇された時、逮捕された時、同じようなことを言っていた。真偽の程はわからないけど、これからも彼を好きなことに変わりはないと。そして解釈しようとブログを書いた。(過去エントリー『聖のこと』)ここまで私。

 

あと、印象に残ってるエピソードがある。推しのグループのメンバーが、推しになりすまして呟いたツイートに、主人公が「なんかいつもと違いますか?真幸くんぽくない……」とリプライして見事言い当ててしまい、オタクの中で一躍有名人になったというエピソード。

主人公、推しを解釈することに何かを見出してしまってないか。自分の解釈に推しを当てはめて答え合わせをすることに、何かを見出してしまってないか。そして、思った。

大体私じゃん。

ず〜っと臭いものに蓋をするというか、見てみぬふりをするというか、気づかないようにしていたんだけど、痛感させられてしまった。

昨今の私、推しを解釈をすることに何かを見出しちゃってるなと。

主人公のようにルーズリーフに書きつけてこそないが、スマホのメモに時系列で過去の出来事を記録してたり、いつの何の写真と言われたらすぐ引っ張り出せるように画像フォルダを整理してたり、大体のことは聞かれたら答えられるように把握していたいと思っていた。それはもう、好きだからというより、推しを解釈し続けたいから、だったのかもしれない。

とはいえ、ひとりの人間が本当はどんな人かなんて、他人がいくらその人のこれまでの言動をかき集めても、その当人にしか分かり得ないということは、きちんと理解しているつもりだった。たとえ仲の良い友達のことでも、恋人のことでも、家族のことでさえも全ては分からないんだから、赤の他人に等しい推しのことなんて、ただのファンには分からないだろう。なのに、なんかちょっと分かったつもりでいた。自分のかき集めた解釈を推しに当てはめて、解釈通りだった時にはさらに自分の解釈を強固にして、解釈違いだった時には、推しにがっかりしたり、見て見ぬふりをしたりしていた。そんなことに改めて気づいてしまった。

 

最近は海外に移住してきたことで、推しの活動を追い切れなくなった。自分の知らない推しが、エピソードが、見ていないライブや映像が、どんどん増えてきて、最初は焦燥感みたいなものを感じてたけど、近頃はもうどこか諦めみたいな気持ちもある。

ここ一、二年、私の思い描いた推しと実際の推しが解釈違いを起こしているのは、今の彼の活動を十分に見ていないから解釈しきれなくなったのか、それとも、もう、私にとって彼が推しではなく人になってしまったのか。まだ分からない。分からないし、多分、これからもしばらく、見られる範囲で彼の活動を見たり、自担と名乗ったりすると思う。

結局、主人公が上野真幸を応援していたのはたったの一年半かそのくらいだったし、推しが芸能界を引退したことでファンを辞められたので、むしろ、潔い。それに比べて私はなんだ。

 

何番煎じか分からない、オタクによる『推し、燃ゆ』の読了ブログを書こうとしたら、担降りブログみたいになってしまったんだけど、実は推しやオタクの話だけではなくて、たぶん何らかの発達障害を抱えている主人公が、学校の授業やバイトの仕事に適応できない生きづらさ、家族や教師にも理解されずにただの怠惰と思われてしまう問題とか、いろんな要素を含んで書かれているので、興味のある方はちゃんと本を読んでみてください。めっちゃネタバレしてしまったけど。

 

ツイッターでは、これからもゆるっと好きなことを呟いてまいります。よろしくお願いします。

 

2021.2.5